Rock'n'Roll Prisoner's Melancholy

好きな音楽についての四方山話

#0128) COLOUR BY NUMBERS / CULTURE CLUB 【1983年リリース】

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筆者が洋楽を聴き始めた1980年代初期において、女子から最も人気の高かった洋楽アーティストは間違いなくDURAN DURANデュラン・デュラン〕である。


これは、もう圧勝と言えるくらい、ダントツの1位だったのである。


DURAN DURANはメンバー全員が奇跡的なくらい美形揃いだったので、女子からの人気が高かったのは当たり前と言えば当たり前の話である。


そして、そのDURAN DURANの人気の牙城に迫れる唯一のアーティストがCULTURE CLUBカルチャー・クラブ〕だった。


本国の英国ではDURAN DURANのライバルはSPANDAU BALLETスパンダー・バレエ〕ということになっているらしいが、日本でのDURAN DURANのライバルは間違いなくCULTURE CLUBだった。


この時代に登場したアイドル性の高いポップ・ロック系のアーティストの殆どが高い音楽性兼ね備えていたのだが、その中でも全盛期のCULTURE CLUBの楽曲の質の高さは群を抜いていた。


今回はCULTURE CLUBの2ndアルバム「COLOUR BY NUMBERS」を取り上げてみる。


よく、「全曲シングル・カット出来るアルバム」という表現が使われるが、このアルバムが正にそれなのである。


収録されているのは全10曲なのだが、何も考えずにランダムに1曲選んでシングル・カットしたとしてもヒット曲になったはずだ。


このアルバムは"Karma Chameleon (カーマは気まぐれ)"だけのアルバムではないのだ。


当時の日本盤には、全英3位、全米2位のヒット・シングル"Time (Clock Of The Heart)"がボーナス・トラックとして収録されていたのだから、もう手に負えないレベルのクオリティの高い楽曲集となっていたのである。


1stアルバムの「KISSING TO BE CLEVER」はレゲエ、ダブ、ラテン等のフレイヴァ―を散りばめたダンス・ミュージックだったのだが、この2ndアルバムの「COLOUR BY NUMBERS」はモータウンやソウル・ミュージックからの影響が色濃く出た、とことんメロディに拘ったヴォーカル・アルバムになっている。


そして、このバンドの凄かったところはヒット性の高いポップ・ミュージックをやりながらも、攻撃的な姿勢を持っていたところだ。


あえてそうしたらしいのだが、メンバー構成が実に面白い。


シンガーのBoy George〔ボーイ・ジョージ〕がアイリッシュ系、ドラマーのJon Moss〔ジョン・モス〕がユダヤ系、ベーシストのMikey Craig〔マイキー・クレイグ〕がジャマイカ系、ギタリスト兼キーボーディストのRoy Hay〔ロイ・ヘイ〕だけが唯一イングランド人という具合に、異なる人種を集めたメンバー構成になっていたのである。


更に、シンガーのBoy Georgeはゲイであり、当時、ドラマーのJon Mossと恋愛関係にあった。


正に、人種や性別への偏見に対するメッセージをバンドの存在そのもので体現していたのである。


また、このバンドは意外なミュージシャンから支持を得ていたのも面白かった。


THE JAMザ・ジャム〕で、当時はTHE STYLE COUNCIL〔ザ・スタイル・カウンシル〕を率いていて活動していた筆者の尊敬するミュージシャンのPaul Wellerポール・ウェラー〕は、続々と登場するポストパンクやニュー・ウェイヴの若手バンドをボロクソにけなしていたのだが、Boy GeorgeのヴォーカルやCULTURE CLUBの音楽性を高く評価していた。


そして、これも筆者の大好きな元NEW YORK DOLLSニューヨーク・ドールズ〕~元THE HEARTBREAKERS〔ハートブレイカーズ〕のギタリストであるJohnny Thundersジョニー・サンダース〕が、洋楽雑誌「音楽専科」のインタビュアーから、「最近の若いバンドで好きなバンドはありますか?」という問いに対し、STRAY CATSストレイ・キャッツ〕、HANOI ROCKSハノイ・ロックス〕と共にCULTURE CLUBの名を挙げていたのも意外だった。


しかし、意外ではあったが、Paul WellerJohnny Thundersのような本物から彼らが愛されるのも、言葉では言い現わしにくいのだが、何となく分かるような気がした。


この後、CULTURE CLUBは3rdアルバムの「WAKING UP WITH THE HOUSE ON FIRE」を制作し、そこからの第一弾シングルとして"The War Song (戦争のうた)"をリリースする。


この明確に反戦への意思表示を込めたシングルが失敗し、CULTURE CLUBの人気は下降していくことになる。


今まで通りラヴ・ソングを歌っていればCULTURE CLUBはもう少しだけ人気を維持できたかもしれない。


しかし、大ヒット・アルバムである「COLOUR BY NUMBERS」を踏襲せず、"The War Song"というリスクの高いシングルで当時の音楽シーンに戦いを挑んだCULTURE CLUBのことを筆者は尊敬している。


"The War Song"の次にリリースされた"The Medal Song"というシングルでは、まるで"The War Song"の失敗を予想していたかのように「Life will never be the same as it was again(人生は決して再び同じには戻れない)」と歌っている。


全くヒットしなかったこの"The Medal Song"が、実は珠玉の名曲であることを最後に付け加えておきたい。